「私の知る限り、多くのものが存在するかもしれない──それについて私も他の誰も、いかなる観念や概念を持つこともできないようなものが」

- 1685年3月12日~1753年1月14日(67歳没)
- アイルランド出身
- 哲学者、聖職者、「主観的観念論(イマテリアリズム)を提唱した近代哲学者」
英文
”Many things, for aught I know, may exist, whereof neither I nor any other man hath or can have any idea or notion whatsoever.”
日本語訳
「私の知る限り、多くのものが存在するかもしれない──それについて私も他の誰も、いかなる観念や概念を持つこともできないようなものが」
解説
この言葉は一見、ジョージ・バークリーの観念論と矛盾するように思われるが、むしろ彼の哲学的立場を補強するための議論の一部として理解すべきである。人がまったく観念や概念を持てないものについて「存在する」と言うのは無意味だ、という主張の前提としてこの名言は用いられている。つまり、「観念を持てないもの」の存在を認めることはできるかもしれないが、それは私たちにとって無関係であるという哲学的限界の確認である。
バークリーは一貫して、存在とは知覚されることである(esse est percipi)と主張した。この名言は、我々の認識や知覚の範囲外に何かが存在する可能性を完全には否定しないが、それが知覚不可能である限り、我々にとって意味ある「存在」とは言えないという論点につながっていく。この言葉は一種の譲歩として見せつつ、最終的には知覚に依拠しない存在を無意味化する議論展開の一部である。
現代においても、観測できない対象について科学が語るべきかどうかという問題(たとえばマルチバース理論や哲学的ゾンビの議論など)は、この名言と通底する問題意識を含んでいる。人間の知的枠組みを超えた存在を想定することは可能だが、それに意味を与えるには観念の枠に落とし込まなければならない。この名言は、存在と言語、そして思考の限界を鋭く問う哲学的入口として機能している。
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