「私はウラン機関を作る可能性については絶対に確信していたと言える。しかし、爆弾を作るとは一度も思わなかった。そして心の底では、それが爆弾ではなく機関であることを本当に嬉しく思っていた」

- 1901年12月5日~1976年2月1日(74歳没)
- ドイツ出身
- 物理学者、ノーベル物理学賞受賞者
英文
”I would say that I was absolutely convinced of the possibility of our making an uranium engine, but I never thought that we would make a bomb; and at the bottom of my heart, I was really glad that it was to be an engine and not a bomb.”
日本語訳
「私はウラン機関を作る可能性については絶対に確信していたと言える。しかし、爆弾を作るとは一度も思わなかった。そして心の底では、それが爆弾ではなく機関であることを本当に嬉しく思っていた」
解説
この言葉は、科学の成果が軍事利用に向かうことへの葛藤を端的に示している。ハイゼンベルクは第二次世界大戦中、ドイツの原子力研究に深く関わった人物であった。彼が語る「ウラン機関」とは、原子炉のことであり、エネルギー源としての原子力利用を意味している。それに対し、原子爆弾の開発は彼の関心の外にあり、むしろ回避すべきものとして心情的に拒んでいた。
歴史的には、ドイツの原爆開発計画はアメリカのマンハッタン計画に比べて遅れを取り、実用化には至らなかった。その理由については、技術的限界や政治的要因とともに、研究者自身の動機や意識の問題も議論されている。ハイゼンベルクの言葉は、彼が爆弾ではなく平和利用を志向していたと主張する証拠としても引用されるが、一方で戦後の自己弁護の色彩が強いと批判されることもある。
現代の視点からは、この言葉は科学者の倫理的責任をめぐる普遍的な問いを投げかける。科学の発見や技術開発は、エネルギー源や医療の進歩のように人類に利益をもたらす一方で、兵器や破壊の道具にもなり得る。ハイゼンベルクの心情は、科学の二面性に直面する研究者の内なる葛藤を象徴しており、今なお現代科学者にとっても重い教訓となっている。
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