「木の花では、濃くても薄くても紅梅がよい。桜は、花びらが大きく、葉の色が濃く、細い枝に咲いているのがよい。藤の花は、房が長くしなやかで、色濃く咲いているのがとてもすばらしい」

- 966年頃~1025年頃(諸説あり)
- 日本出身
- 作家、随筆家
原文
「木の花は こきもうすきも紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色こきが、枝ほそくて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色こく咲きたる、いとめでたし」
現代語訳
「木の花では、濃くても薄くても紅梅がよい。桜は、花びらが大きく、葉の色が濃く、細い枝に咲いているのがよい。藤の花は、房が長くしなやかで、色濃く咲いているのがとてもすばらしい」
解説
この一節は『枕草子』において、清少納言の自然観と美意識をよく示す記述である。ここでは、紅梅・桜・藤という代表的な木の花について、それぞれの理想的な姿を描いている。紅梅は色の濃淡を問わず愛でられ、桜は大きな花びらと濃い葉の色、そして細い枝との対比によって美しさを引き立たせる。藤に至っては、房が長くしなやかに垂れ、濃い紫の色合いを強調し、その優雅さを「いとめでたし」と称賛している。
この記述には、平安時代の宮廷文化における四季の花を愛でる風雅の習慣が背景にある。当時、花は単なる鑑賞対象ではなく、和歌や絵画、さらには年中行事と深く結びついていた。その中でも紅梅・桜・藤は、春を彩る象徴的な花であり、その美しさをどう表現するかは貴族たちの感性と教養を示す要素であった。清少納言は、花の色彩、形状、枝ぶりといった細部にまで目を配り、美の本質を語っている。
現代においても、この感覚は共感できる。桜の咲き方や藤棚の房の長さに魅了される人は多く、梅の香や色合いを楽しむ文化も続いている。この一文は、自然の中にある細やかな美に気づき、理想的な姿を見出そうとする視点の重要さを教え、千年前の美意識が現代にも生きていることを示しているのである。
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