「そもそも誰かに一番に愛されなければ、何の意味があるだろう。ただひどく、中途半端に憎まれ、悪く扱われて生きるのはいやだ。二番目や三番目なら、死んでしまってもかまわない。どうせなら、一番でありたい」

- 966年頃~1025年頃(諸説あり)
- 日本出身
- 作家、随筆家
原文
「すべて人に一に思はれずは、何にかはせん。ただいみじう、なかなか憎まれ、悪しうせられてあらん。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらん」
現代語訳
「そもそも誰かに一番に愛されなければ、何の意味があるだろう。ただひどく、中途半端に憎まれ、悪く扱われて生きるのはいやだ。二番目や三番目なら、死んでしまってもかまわない。どうせなら、一番でありたい」
解説
この一節は『枕草子』の中でも特に恋愛観と自己肯定感を強く示した一文である。清少納言は、誰かの中で一番に愛されないくらいなら、存在の意味がないとまで言い切り、二番目や三番目で妥協するくらいなら死を選ぶとさえ語っている。この表現には、徹底した自尊心と、愛における絶対的な価値を求める平安女性の気概が見て取れる。
平安時代の恋愛は、一対一の独占的な関係ではなく、複数の相手との交際も珍しくなかった。しかし、その中で「一番」であることは、女性にとって名誉と心の安定を意味した。清少納言は、愛の序列が曖昧な関係を拒み、「なかなか憎まれ、悪しうせられて」生きることを最も屈辱と感じていたのである。この考えは、当時の宮廷社会での女性の立場やプライドを如実に反映している。
現代においても、この感覚は共感を呼ぶ。恋愛において「特別な存在」であることを求める気持ちは、時代を超えて変わらない。SNSや多様な関係性が広がる現代でも、唯一無二の愛情を求める心は強く残っている。この一文は、人間の根源的な欲求である「特別でありたい」という思いを鮮やかに表現した名句であり、千年を経てもなお響く力を持っているのである。
感想はコメント欄へ
この名言に触れて、あなたの感想や名言に関する話などを是非コメント欄に書いてみませんか?
前後の名言
申し込む
0 Comments
最も古い