「十字架なしに歩み、十字架なしに築き、十字架なしにキリストを宣べ伝えるとき、私たちは主の弟子ではない。私たちは世俗的である。司教であれ、司祭であれ、枢機卿であれ、教皇であれ、そのすべてであっても、主の弟子ではない」

教皇フランシスコ(画像はイメージです)
教皇フランシスコ(画像はイメージです)
  • 1936年12月17日~2025年4月21日(88歳没)
  • アルゼンチン出身
  • カトリック教会第266代ローマ教皇

英文

“When we walk without the cross, when we build without the cross and when we proclaim Christ without the cross, we are not disciples of the Lord. We are worldly. We may be bishops, priests, cardinals, popes, all of this, but we are not disciples of the Lord.”

日本語訳

「十字架なしに歩み、十字架なしに築き、十字架なしにキリストを宣べ伝えるとき、私たちは主の弟子ではない。私たちは世俗的である。司教であれ、司祭であれ、枢機卿であれ、教皇であれ、そのすべてであっても、主の弟子ではない」

解説

この言葉は、十字架の中心性を強調している。キリスト教における十字架は、単なる苦難の象徴ではなく、救いと犠牲の道を意味している。フランシスコは、十字架を避けて安易な道を選ぶことは、たとえ教会の高位聖職者であっても真の弟子たりえないと警告している。

歴史的に、教会の権威や制度が形骸化するとき、信仰の本質から離れる危険があった。ここで批判されているのは、世俗性(worldliness)であり、それは地位や名誉、権力にとらわれる姿勢である。フランシスコは、肩書きや立場ではなく、十字架を担い続ける姿勢こそが弟子の証であると説いている。

現代社会においても、この教えは重要な意味を持つ。信仰者にとって、信仰生活を形だけで済ませるのではなく、犠牲と謙遜を伴う生き方を求められている。また、指導者であっても例外ではなく、真の信仰は自己放棄と他者への奉仕を通じて証明されるという普遍的なメッセージを伝えている。

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