「私にとって無原罪の御宿りの祭日は、『受動的行為』の祭日である。それは、神的エネルギーが我々を通して単純に伝達されることによって働く行為である。純潔は、外見とは異なり、本質的には能動的な徳である。なぜなら、それは神を我々の内に、そして我々の影響を受ける者たちの上に集中させるからである」

- 1881年5月1日~1955年4月10日(73歳没)
- フランス出身
- イエズス会士、神学者、古生物学者、哲学者
英文
“For me, the Immaculate Conception is the feast of ‘passive action,’ the action that functions simply by the transmission through us of divine energy. Purity, in spite of outward appearances, is essentially an active virtue, because it concentrates God in us and on those who are subject to our influence.”
日本語訳
「私にとって無原罪の御宿りの祭日は、『受動的行為』の祭日である。それは、神的エネルギーが我々を通して単純に伝達されることによって働く行為である。純潔は、外見とは異なり、本質的には能動的な徳である。なぜなら、それは神を我々の内に、そして我々の影響を受ける者たちの上に集中させるからである」
解説
この名言は、テイヤール・ド・シャルダンが「無原罪の御宿り」を独自の霊的視点から捉え直したものである。彼にとってこの祝祭は、単なる受動ではなく「受動を通じた能動」、すなわち神的エネルギーの通路としての人間の役割を示すものであった。人は自らの内に神を宿すことで、外に働きかけ、他者に影響を及ぼす。
背景には、彼の「神的環境(Le Milieu Divin)」の思想がある。世界の中で神は人間を通じて働き、そのエネルギーは「受動的」に伝わるが、それは同時に最も能動的な行為ともなる。純潔(purity)は消極的な禁欲ではなく、神を集中させる積極的な徳であり、内面的に世界を変える力を持つ。
現代的に解釈すれば、この言葉は霊的実践の本質を表す。人間の価値は外面的な活動の多寡ではなく、いかに神的エネルギーや普遍的善を内に集中させ、それを周囲に広げるかにある。テイヤールの視点は、受動と能動の二元性を超えて、人間を通じた神の働きの深い理解を示している。
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