「人を殺した人間だから、殺すことの痛みがわかった人間だから。それで膝を曲げるんじゃなくて、それを背負って歩いてる人間だから、この娘は描くに値するんじゃないかと僕は思ってたんですよ」

- 1941年1月5日~
- 日本出身
- アニメーション監督、映画監督、脚本家、スタジオジブリ共同創設者
原文
「人を殺した人間だから、殺すことの痛みがわかった人間だから。それで膝を曲げるんじゃなくて、それを背負って歩いてる人間だから、この娘は描くに値するんじゃないかと僕は思ってたんですよ」
出典
解説
この言葉は、『風の谷のナウシカ』の主人公を「清らかな聖女」ではなく、人を殺した経験を持つ存在としてあえて設定した意図を語ったものである。映画版では、父ジルを殺された怒りからナウシカはトルメキア兵を次々と斬り殺し、その直後に自分の中の憎悪と暴力性におののく。
宮崎はインタビューで、批評家が「人を殺しても泣かなかった」ことを責めたのに対し、だからこそ彼女は殺す痛みを知り、それを背負って歩く人物として描く価値があるのだと反論している。
ここには、「純潔」「汚れていないこと」に価値を置く発想への強い違和感が示されている。宮崎にとってナウシカは、戦争に巻き込まれ、怒りに駆られて殺し、後悔し、それでもなお他者と世界を救おうとする、光と影を併せ持った人間的存在である。漫画版ではさらに戦争と謀略の渦中に深く関わり、多くの死と暴力を目撃しながら、それでも「生きねば」と歩み続ける人物として描かれている。
この名言は、「傷を負い、汚れ、矛盾を抱えた人間だからこそ、他者の痛みに届く倫理を持ち得る」という宮崎の人間観の核心を示す言葉である。
現代社会でも、加害と被害、加担と無関係は単純に切り分けられない。戦争、環境破壊、不公正な制度などに、私たちは知らぬ間にどこかで関与している。そうした現実の中で、「自分はきれいな側」に立とうとするだけでは何も変わらない。むしろ、自らの中の暴力性や加害性を直視し、その重さを背負ったうえで、それでも世界を肯定しようとする態度こそが求められている。宮崎はナウシカを通して、「罪や傷を抱えたまま、それでも歩き続ける人間の尊さ」を肯定しており、この視点は戦争や差別の問題に向き合う現代の私たちにも、そのまま突きつけられているのである。
感想はコメント欄へ
この名言に触れて、あなたの感想や名言に関する話などを是非コメント欄に書いてみませんか?