「1906年、私たちがとても幸せに過ごしてきたあの古い仮設実験室をついに手放そうとしていたとき、恐ろしい悲劇が起こり、夫は私のもとを去りました。私は子どもたちを育てながら、同時に私たちの研究を続けていかなければならなくなりました」

- 1867年11月7日~1934年7月4日
- ポーランド出身(後にフランスで活動)
- 物理学者、化学者、教育者
英文
“In 1906, just as we were definitely giving up the old shed laboratory where we had been so happy, there came the dreadful catastrophe which took my husband away from me and left me alone to bring up our children and, at the same time, to continue our work of research.”
日本語訳
「1906年、私たちがとても幸せに過ごしてきたあの古い仮設実験室をついに手放そうとしていたとき、恐ろしい悲劇が起こり、夫は私のもとを去りました。私は子どもたちを育てながら、同時に私たちの研究を続けていかなければならなくなりました」
解説
この言葉は、マリー・キュリーの人生における最大級の喪失と、その後の使命感に満ちた歩みの始まりを表している。1906年、ピエール・キュリーは交通事故で突然命を落とした。共に科学に人生を捧げてきた最愛の伴侶を失った悲しみと同時に、家庭と研究という二重の責任が彼女の肩にのしかかることとなった。
彼女が言及する「古い実験室」は、夫妻がラジウムを初めて抽出した場所であり、原始的で貧しい環境ながら科学的発見と幸福に満ちた思い出の場であった。それを手放す直前の転機に悲劇が起きたことが、運命の皮肉と深い喪失感を際立たせている。しかしマリーは、その状況に打ちひしがれることなく、母として、そして研究者としての役割を果たす決意を新たにする。
この言葉は、人生の逆境においても、自らの使命を見失わずに進むべきだという強い意志を語っている。家族と仕事の両立、そして愛する人を失った悲しみの中でなおも未来へ向かう勇気は、時代を超えて多くの人々に共感と希望を与える。科学と人生の両方を背負いながら歩んだ女性の姿が、静かに、しかし力強く浮かび上がる一文である。
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