「1929年の春、私はアメリカへ戻った。この国が恋しかった。学生時代に私は新しい物理学について多くを学び、それを自ら追究し、説明し、その発展を促したいと願っていた」

- 1904年4月22日~1967年2月18日
- アメリカ合衆国出身
- 理論物理学者、科学行政官、教育者
- マンハッタン計画において原子爆弾の開発を主導し、「原爆の父」と呼ばれる。戦後は核兵器の規制と倫理的責任を訴え、冷戦下の科学と政治の関係に深い影響を与えた。
英文
“In the spring of 1929, I returned to the United States. I was homesick for this country. I had learned in my student days a great deal about the new physics. I wanted to pursue this myself, to explain it, and to foster its cultivation.”
日本語訳
「1929年の春、私はアメリカへ戻った。この国が恋しかった。学生時代に私は新しい物理学について多くを学び、それを自ら追究し、説明し、その発展を促したいと願っていた」
解説
この言葉は、ロバート・オッペンハイマーが新しい物理学の中心地であるヨーロッパから帰国し、アメリカにおける理論物理学の確立に貢献する決意を語った回想である。彼はドイツで量子力学の最先端を学び、ディラックやボーアらといった巨匠たちの思想に直接触れた経験を持っていた。その知的刺激を祖国アメリカに持ち帰りたいという思いが、この発言に込められている。
「この国が恋しかった」という一文は、単なる郷愁ではなく、科学者としての使命感と文化的アイデンティティの再確認でもある。当時のアメリカはまだヨーロッパと比べて理論物理学の発展が遅れていたが、オッペンハイマーはその土壌に最先端の理論を根付かせようとする情熱を持っていた。「追究し、説明し、発展を促す」という三つの動詞には、科学者、教育者、啓蒙者としての多面的な役割への自覚が表れている。
この言葉は、知識を海外から受け取るだけでなく、それを育て、伝え、広めていくことの重要性を示している。グローバルな視野とローカルな責任を両立させようとしたオッペンハイマーの姿勢は、現代の学術・教育においても模範となる知の志を語っているのである。
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