吉田松陰の名言・格言・警句

- 1830年9月20日~1859年11月21日
- 日本(江戸時代・長州藩)出身
- 思想家、教育者、尊王攘夷運動家
- 松下村塾を開いて多くの志士を育成し、明治維新の精神的指導者として知られる。積極的な海外進出と国家改革を訴え、幕末日本の近代化に大きな影響を与えた。志半ばで処刑されるも、その思想は後世に受け継がれた。
- 「学問をする上で最も大切なことは、自分自身のために行うことである。自分のために学ぶのは立派な人の学問であり、他人のために学ぶのは卑しい人の学問である」
- 「おおよそ子どもが賢くなるのも愚かになるのも、善く育つのも悪く育つのも、大体は父母の教育によるものである」
- 「神を拝むには、まず自分の心を正直にし、また自分の体を清らかにして、他に雑念を持たず、ただ慎み深く拝むべきである」
- 「士大夫が道に志し、真心をもって鶏が卵を温め育てるように励むことができれば、どうしてその成果が生まれないことを心配する必要があろうか」
- 「十年の短さを嘆くのは、夏の一時しか生きない蝉に、長寿の椿のようになれと言うようなものであり、百年の長さを誇るのは、長寿の椿を短命の蝉にさせようとするようなものである」
- 「天下を良くしようとして自国を捨てるのは、国を治めようとして自らの修養を怠るのと同じである」
- 「徳を磨き才能を伸ばすには、恩ある師と有益な友のもとにいることが必要である。ゆえに立派な人は交際を慎重に選ぶ」
- 「軽々しく他人の師となってはならない。また、軽々しく他人を師としてはならない。必ず本当に教えるべきことがあって師となり、本当に学ぶべきことがあって師と仰ぐべきである」
- 「たとえ自分の体が武蔵野の野辺に朽ち果てようとも、大和魂だけはこの世に留め置きたい」
- 「最初の動機が名声や利益のために始めた学問は、学びが進むほどにその弊害が明らかになり、どれほど博識で立派な言葉で取り繕おうとも、結局はそれを隠すことはできない」
- 「世の中に人材がいないことを憂うべきではない。人材を活かさないことを憂うべきである。広い識見と優れた才気を持つ人物が現れてこそ、多くの人材も初めてその力を発揮できるのである」
- 「私心を抑えて公のために尽くす者を立派な人とし、公の利益を私利私欲のために利用する者を卑しい人とする」
- 「怒ってばかりいると、しまいには腹も立たず、何にも感じなくなってしまうものだ」
- 「命が惜しくなったのか、覚悟が定まらなかったのか、学問によって考えが深まったのか、親への孝心が薄れたのか、他人の評価はどうあれ、自分自身の中で自然と決まったことだ」
- 「今起こっている逆らいの火は、誰がこれを煽ったのか。それは自分ではないか。自分がいなければ、この逆らいの火は千年経っても起こらなかっただろう。自分がいる限り、この逆らいの火はいつでも起こる」
- 「今の世の中であっても、悪人が完全にいなくなるはずがない。もし無理に悪人がいなくなったと言う者がいれば、その者こそ悪人であると知るべきだ」
- 「親が子を思う心よりもさらに深いのが本当の親心だが、今日の便りを子はどのように受け取るのだろうか」
- 「およそ空理空論にふけり、現実の事柄をおろそかにするのは学者に共通する病である」
- 「およそ、その道を理解すれば、その道を体現する人を慕い、その人を理解すれば、その人が属する国や時代を慕うのは人の自然な感情である」
- 「読書の心得としては、まず自分の心を空っぽにし、胸の中にあらかじめ意見を持たず、自らの心を書物の中に入り込ませて、その書物の道理がどうであるかを素直に見て、書物の意図を受け取るべきである」
- 「おおよそ人が若くして英気に満ちている時は、文章や議論が盛んに光り輝き、必ず人をよく感動させ、思いがけないほどの称賛を得るものである」
- 「こうすればこのような結果になると分かっていながらも、どうしても抑えることができないのが大和魂である」
- 「学問というものは、前に進まなければ必ず後退する。だから日々進み、月ごとに少しずつ進み、ついには死ぬ時にも悔いがない、そうであって初めて学問と言えるのである」
- 「閑暇を盗んで時を過ごし、月を詠じ花に心を奪われるようなことでも、もしわずかでも得るものがあるなら、それもまた良いことである」
- 「吉事や凶事、禍いや福はもともと定められたものであり、仏に祈って感謝しても、何の益があろうか。たとえ利益があるとしても、立派な人はそのようなことはしない」
- 「経書を読む上で最も大切なことは、聖人や賢者におもねらないことである。もし少しでもおもねる心があれば、道理は明らかにならず、学んでも利益はなく、かえって害となる」
- 「本当に、世の中の人間は酔っ払いだと思っていればよい。何を言っても理解せず、怒りもせず、涙も流さず、心を動かされることもない。そんな人たちをまともに相手にするよりは、うまくあしらって、自分のすべきことを黙々と進めた方がよい」
- 「剣術や槍術においても、実践ばかりを重視すれば理論の探究がおろそかになり、また理論ばかりを重視すれば実地の鍛錬が疎かになるものである」
- 「権謀とは、実際には無策でありながら、あたかも策があるかのように装い、率直な意見や極論を本当には言わないのに、あたかも正論を語っているように見せかけることである」
- 「色欲に溺れる者は、人がそのみだらさを嘲笑することを気にせず、金銭を貪る者は、人々がその貪欲さを咎めることを恐れない」
- 「志を遂げれば優れた人物となり、計画に失敗すれば囚われの身となる。世俗の者たちとは志を語り合うことは難しく、結果の成否によってのみ男の価値を論じるものである」
- 「官職にあり、俸禄を受け取っている立場では、どうしても真の忠義や真の孝行を果たすことはできない」
- 「死は好むべきものでもなく、また忌み嫌うべきものでもない。自らの道を尽くし、心が安らぐときこそ、死に至るべき時なのである」
- 「多くの人は目先のことしか見ないが、自分ひとりが遠い先のことを考えると、大勢の人々はそれを怒り嫌うものである」
- 「十歳で死ぬ者にも、その十年間にそれぞれ春夏秋冬があり、二十歳なら二十年分、三十歳なら三十年分、五十歳、百歳なら、それぞれの年数だけ春夏秋冬がある」
- 「自分はたとえ牢に入れられようと、首をはねられようと、天地に恥じるところがなければ、それでよいのです」
- 「優れた人材を得ることは最もよい策である。しかし、人材に自ら『この人に仕えたい』と思わせることに勝るものはない。まず自らを高めて、人が自然に従うようにしなければならない」
- 「詩を解釈するにあたり、あまりに深読みすれば、作為に陥り、浅く読みすぎれば、大まかで雑な理解に陥る」
- 「仁とは愛を根本とするものである。他人を愛することも、自分自身を愛することも、どちらも仁にほかならない」
- 「水や火がなければ肉体は死ぬだけだが、仁がなければ心そのものが死んでしまう」
- 「すでに真の志があれば、志のない者は自然に離れていくものであり、恐れるには及ばない」
- 「節操を守る士は、困窮することなど初めから覚悟しており、いずれ飢えに苦しみ、溝や谷に倒れ死ぬことさえも常に心に留めて忘れないものである」
- 「そもそも知を好む者は多くの場合、人を疑いすぎて過ちを犯し、仁を好む者は多くの場合、人を信じすぎて過ちを犯す。どちらも偏りである」
- 「ただ並外れた人物だけが、並外れた大事を成し遂げることができる」
- 「天の道理は容易には信じがたく、人の心も一定していない」
- 「時が来れば、忠臣や義士でなくても功績を立てることができるのだから、無理に自分たちがその時を待つべきではない」
- 「常磐津を学んでいた人が、やがて書物を読む人となり、三味線を奏でる音も、貝(ほら貝)を吹く音へと変わる」
- 「お前はお前であり、私は私である」
- 「心が動き出すきっかけは、広く巡り歩くことによって得られる利益である」
- 「一人ひとりが考えを積み重ねて一家の計画を成し、一家の力を積み重ねて一国の策を成し、一国の策を積み重ねて天下の大計を成すことを、どうか努力していただきたい」
- 「平常から口数多く軽々しく振る舞う者は、いざという時に必ず口をつぐみ、平常から勢いばかりを誇る者は、いざという時に必ず滅びる」
- 「私に山林に隠れ住めと言う者がいる。確かに山林は楽しめるだろうが、ただ私の中にある何かを成し遂げようとする気持ちは消すことができない」
- 「世の人々が善し悪しをあれこれ言うとしても、卑しい身分のこの私の心の真実は、きっと神だけが知ってくれるだろう」
- 「散る花や飛ぶ綿毛に、どうして生と死がないだろうか。落ちる葉にも栄枯盛衰があり、浮かぶ雲にも生と死があるのだ」
- 「私は人を観察する目は持っているが、人を本当に見極める確信までは持っていない」
- 「今日死を覚悟する安らぎは、四季が巡り続ける自然の理から得られるものである」