教皇フランシスコ

教皇フランシスコ(画像はイメージです)
教皇フランシスコ(画像はイメージです)
  • 1936年12月17日~2025年4月21日(88歳没)
  • アルゼンチン出身
  • カトリック教会第266代ローマ教皇

人物像と評価

フランシスコ(ローマ教皇)は、2013年に即位した第266代ローマ教皇であり、南米出身(アルゼンチン)の初の教皇、そしてイエズス会出身としても初という歴史的地位にある。

彼の本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオで、1936年生まれ。

即位以来、貧困層への共感、社会的弱者への配慮、環境問題への積極的な発言を通じて、カトリック教会の現代化に取り組んでいる。

彼の最大の功績の一つは、2015年の回勅『ラウダート・シ(被造界を讃えよ)』に代表される環境倫理の訴求である。

気候変動を道徳的課題と捉え、信仰と科学の対話の必要性を説いた点は宗教界を超えて評価された。

また、LGBTQ+や離婚者に対する姿勢においても、教義の枠内で「排除ではなく包摂」を模索する姿勢が見られる。

一方、伝統主義的なカトリック信徒からは教義の曖昧化や革新への懸念が指摘され、内部の反発も少なくない。

また、教会内の性的虐待問題への対応についても、進展はあるが不十分との批判も存在する。

総じて、フランシスコ教皇は教会の道徳的権威を維持しつつ、時代に適応する柔軟性を追求する改革者と位置づけられる。

名言

  1. 「どこであれ壁を築くことばかり考え、橋を築こうとしない人はキリスト者ではない。これは福音に反している」
  2. 「美しい説教、真の説教は、最初の宣言、すなわち救いの宣言から始まらなければならない。この宣言ほど確かで、深く、揺るぎないものは他にない」
  3. 「私はタンゴが大好きで、若い頃は踊っていた」
  4. 「母親は言葉で弁護する前に、愛に満ちた心で自らを守る。スキャンダルばかりに注目する人々の心に、果たして教会への愛はあるのだろうか」
  5. 「信仰を持たない者にとっても、良心に背くとき罪は存在する。良心に耳を傾け、それに従うことは、善か悪かと感じられるものに直面して決断することを意味する。そしてこの決断によって、行為の善悪が定まる」
  6. 「若者に希望を取り戻させ、老人を助け、未来に開かれ、愛を広めなければならない。貧しい人々の中で貧しくあれ。排除された人々を包み込み、平和を説く必要がある」
  7. 「自分自身の世界に閉じこもる教会という霊的な病を避けなければならない。教会がそのようになったとき、それは病んでいく」
  8. 「執念深く、意地の悪い者は哀れである」
  9. 「今日においても、私たちは兄弟に手を上げている。武器を完成させ、良心は眠りにつき、自らを正当化するために思想を研ぎ澄ませ、まるでそれが当然であるかのように破壊と苦痛と死をまき散らし続けている。暴力と戦争がもたらすものは死だけである」
  10. 「神の子は人々の魂のうちに宿り、兄弟愛の感覚を植え付けるために受肉した。すべての人は兄弟であり、すべての人は神の子である」
  11. 「教会にいるすべての者、私たち全員を脅かす危険がある。世俗性という危険である。それは虚栄、傲慢、そして高慢へと私たちを導く」
  12. 「ああ、私は貧しい教会、そして貧しい人々のための教会をどれほど望むことか」
  13. 「私の見解では、神は闇を消し去ることはなくとも照らす光であり、神の光の火花は私たち一人ひとりの内にある」
  14. 「すべての人に利益をもたらす経済改革を生み出すためには、倫理的な観点に基づいた金融改革が必要である。しかしそれには、政治指導者の勇気ある態度の転換が求められる」
  15. 「教皇になりたいと思う者は自分自身のことをあまり考えておらず、神はその人を祝福しない。私は教皇になりたいとは思わなかった」
  16. 「神の名のもとに人を殺せると言うことは冒涜である」
  17. 「通りに出ることが事故の危険を伴うのは事実であり、それは普通の人々にも起こり得る。しかし教会が自分の中に閉じこもれば、老いていく。通りに出て傷を負う教会と、引きこもって病む教会のどちらかを選ばなければならないなら、私は迷わず前者を選ぶ」
  18. 「私の独断的で性急な決断の仕方が深刻な問題を引き起こし、極端な保守主義者だと非難されることになった。私は決して右翼ではなかった。問題を生んだのは、私の独断的な決断の仕方であった」
  19. 「今日、教会に最も必要なのは傷を癒し、信徒の心を温める力であることを私ははっきりと見ている。教会には近さ、寄り添う姿勢が必要である」
  20. 「その歩みの遅さ、不誠実さ、信徒に対して犯した、そしてこれからも犯すかもしれない過ちや罪にもかかわらず、教会にはイエスを生き、証しすること以外に意味も目的もない、と信じてほしい」
  21. 「教えてほしい。神が同性愛者を見るとき、その存在を愛をもって認めるのか、それとも拒絶し、非難するのか。…彼らには憐れみをもって寄り添うことが必要である」
  22. 「ほんの少しの憐れみが、世界を冷たさの少ない、より正しい場所にする」
  23. 「アガペー、すなわち最も近い者から最も遠い者に至るまで、互いに注ぐ愛こそが、イエスが私たちに与えてくださった唯一の救いと至福への道である」
  24. 「人間の自己理解は時とともに変化し、人間の意識もまた深まっていく」
  25. 「教会の指導者たちはしばしばナルキッソスのように、廷臣たちにおもねられ、病的なまでに舞い上がってきた。宮廷は教皇制のハンセン病である」
  26. 「礼拝とは、自らの偶像、それも最も隠れた偶像をも取り去り、主を中心として、人生の大路として選ぶことである」
  27. 「否定的なニュースが出ることはあるが、それはしばしば誇張され、操作されてスキャンダルを広める。ジャーナリストは時に、糞便愛好症にかかり、ひいては糞便摂食症を助長する危険を冒している。これはすべての人を汚す罪であり、つまり積極的な側面よりも否定的な側面に注目する傾向のことである」
  28. 「今日、ニュースになるのはスキャンダルであり、それは報道される。しかし食べ物のない子どもたちの多さはニュースにならない。これは重大なことであり、このような状況の中で私たちは安心して休むことはできない」
  29. 「第二バチカン公会議以来、ユダヤ人とカトリックの関係において築かれてきた進展に、私が誠実に貢献できることを、私は新たな協力の精神のもとで心から願っている」
  30. 「かつての金の子牛の崇拝は、新たに冷酷な姿を得た。それは金銭崇拝と、顔を持たず真に人間的な目的を欠いた経済の独裁という形で現れている」
  31. 「仕事がなければ尊厳もない」
  32. 「宗教は人々に奉仕するために意見を表明する権利を持つ。しかし創造において神は私たちを自由にされた。ゆえに人の人生に霊的に干渉することはできない」
  33. 「神の言葉を世界の隅々にまで広めるために、新しい方法を見つけなさい」
  34. 「私が属する西方教会では、ビザンチン、ウクライナ、ロシア、あるいはギリシャのカトリック教会のように司祭が結婚することはできない。これらの教会では司祭は結婚できるが、司教は独身でなければならない。彼らはとても優れた司祭である」
  35. 「『もっと人間的なキリスト教を持てないだろうか。十字架なしで、イエスなしで、自分を捨てることなしで』と言うかもしれない。そのようにして私たちは菓子店のキリスト者になってしまうだろう。きれいで甘いが、真のキリスト者ではない」
  36. 「まずヨーロッパで、そして今やアメリカで、選ばれた人々は国民を借金漬けにし、依存の雰囲気を作り出すことを自らに課してきた。なぜか。それは自らの権力を拡大するという利己的な必要のためである」
  37. 「神が世界を創造されたのだから、神は現実もまた創造されたのである」
  38. 「良きカトリック信者は政治に関わり、自らの最良のものを差し出し、為政者が統治できるようにする。しかし私たちが為政者に差し出せる最良のものとは何か。それは祈りである」
  39. 「教会の社会教説によれば、政治は最も高貴な愛の形の一つである。なぜならそれは共通善に仕えるからだ。私は手を洗って知らぬ顔をすることはできない。私たちは皆、何かを捧げなければならないのだ」
  40. 「歯止めのない自由主義は、強者をより強くし、弱者をより弱くし、最も排除された者をさらに排除するだけである」
  41. 「主は私たちすべてを、キリストの血によって贖われた。私たちすべてを、カトリックだけではない。すべての人を!『神父様、無神論者もですか?』無神論者もである。すべての人を!」
  42. 「人生は旅である。立ち止まると、物事はうまくいかなくなる」
  43. 「私は罪人である。これは最も正確な定義である。それは言い回しでも文学的表現でもない。私は罪人である」
  44. 「キリスト者が復古主義者であり、律法主義者であり、すべてを明確で安全なものにしたいと望むなら、何も見出すことはできない。伝統と過去の記憶は、私たちが神に新たな領域を開く勇気を持つために役立たねばならない」
  45. 「私たちは自分自身のことだけを心配していてはならない」
  46. 「霊的な世俗性は人を殺す!魂を殺す!教会を殺す!」
  47. 「生まれることなく、不当に中絶される運命にあるすべての子どもは、イエス・キリストの顔を持ち、主の顔を持っている」
  48. 「神は常に忍耐を持っておられる」
  49. 「私たち一人ひとりは善と悪のビジョンを持っている。人々が自分が善だと考えるものへ進むよう励まさねばならない。…誰もが自分なりの善と悪の考えを持ち、それに従って善を選び、悪と戦わなければならない。それだけで世界はより良い場所になるだろう」
  50. 「政府の務めを担うすべての男女は、自らに二つの問いをしなければならない。『人々をよりよく仕えるために、私は彼らを愛しているか』『私は謙虚であり、最良の道を選ぶために多様な意見に耳を傾けているか』。この問いを自らに課さないなら、その統治は良いものとはならない」
  51. 「もし誰かが同性愛者であり、主を求め、善意を持っているなら、私が裁く立場にあるだろうか。私たちはこのことで人々を疎外すべきではない。彼らは社会に統合されるべきである」
  52. 「私の選択は、日常生活に関わる質素な車の使用といったことも含めて、物事や人々を見つめ、時代のしるしを読み取ることから生じる必要に応える霊的識別に関連している。主における識別が私の統治の仕方を導いている」
  53. 「支配者のために祈らないキリスト者は、良いキリスト者ではない」
  54. 「教皇は金持ちも貧しい人も同じように皆を愛するが、キリストの名において、金持ちに対して貧しい人を助け、尊重し、引き上げるように思い起こさせる義務がある」
  55. 「十字架なしに歩み、十字架なしに築き、十字架なしにキリストを宣べ伝えるとき、私たちは主の弟子ではない。私たちは世俗的である。司教であれ、司祭であれ、枢機卿であれ、教皇であれ、そのすべてであっても、主の弟子ではない」
  56. 「私たち皆がこれを覚えておこう。自らの生活における具体的な証しなしには、イエスの福音を宣べ伝えることはできない」
  57. 「神学校の生徒であったとき、叔父の結婚式で出会った一人の少女に心を奪われた。彼女の美しさや知的な輝きに驚かされ…しばらくの間、私はすっかり夢中になってしまった」
  58. 「政治は市民活動の中で最も重要なものであり、それには宗教とは異なる独自の行動領域がある」
  59. 「イエスは私たちに別の道を教える。外に出よ。自らの証しを分かち合い、兄弟と交わり、分かち合い、問いかけよ。言葉を霊だけでなく体においても生きる者となれ」
  60. 「あなたに問いたい。現在の重みに押し潰されて生きることができるだろうか。過去の記憶もなく、未来や家庭といった何かを築こうとする望みもなく、それでも進み続けられるだろうか。私にとって、これは教会が直面している最も切迫した問題である」
  61. 「私は教区神学校に入った。ドミニコ会が好きで、ドミニコ会の友人もいた。しかしその後、神学校がイエズス会に委ねられていたため、よく知っていたイエズス会を選んだ。特に私の心を打ったのは、宣教精神、共同体、そして規律の三つであった」
  62. 「今、私たちは被造物との関係があまり良くない」
  63. 「告解室は拷問部屋ではなく、主の憐れみが私たちをより良く生きるように励ます場である」
  64. 「私たち皆が持つ善を行う可能性の根源は、被造にある」
  65. 「主に祈らない者は悪魔に祈っている」
  66. 「今日、世界には多くの貧困がある。そして私たちがすべての人に分け与えることのできるほど多くの富と資源を持ちながら、それが存在するのはスキャンダルである。私たちは皆、どうすれば少し貧しくなれるかを考えなければならない」
  67. 「まず、キリスト者の神が信じず、信仰を求めない者を赦すのかとあなたは問う。前提として、そしてこれは根本的なことだが、神の憐れみは、誠実で悔い改めた心で神に立ち返るならば限りがない。神を信じない者にとっての問題は、自らの良心に従うことにある」
  68. 「まず、キリスト者の神が信じず、信仰を求めない者を赦すのかとあなたは問う。前提として、そしてこれは根本的なことだが、神の憐れみは、誠実で悔い改めた心で神に立ち返るならば限りがない。神を信じない者にとっての問題は、自らの良心に従うことにある」
  69. 「人の人生が茨や雑草に満ちた土地にあっても、善い種が育つ余地は常にある。神を信頼しなければならない」
  70. 「単に扉を開いて迎え入れるだけの教会ではなく、新しい道を見出し、自ら外に踏み出し、ミサに出席しない人々、離れていった人々、無関心な人々のもとへ行く教会になろう」
  71. 「司牧者や信徒が語ることと行うこと、言葉と生活態度の間に不一致があることが、教会の信頼を損なっている」
  72. 「私たちは中絶や同性婚、避妊方法の使用に関する問題だけを強調し続けることはできない。教会の教えは明確であり、私は教会の子であるが、これらの問題について常に語る必要はない」
  73. 「虚栄、見せびらかしは、霊性を世俗的なものに貶める態度であり、教会において犯し得る最も悪しき罪である」
  74. 「私たちは常に主の御前を歩み、主の光の中を歩み、常に非の打ちどころのない生き方をしようと努めなければならない」
  75. 「教会は、あるいは再びそうなるべきなのは、神の民の共同体である。そして魂の世話を担う司祭や牧師、司教たちは、神の民に仕える存在である」
  76. 「私は性急に下される決断を常に警戒している。決断を迫られたときに最初に頭に浮かぶ判断、つまり第一の決断を私は常に警戒する。それはたいてい間違っているからだ。私は待ち、自己の内面を深く見つめ、必要な時間をかけて吟味しなければならない」
  77. 「女性のいない教会は、マリアのいない使徒団のようなものである。聖母は使徒たちよりも重要であり、教会そのものも女性的であり、キリストの花嫁であり、母である」
  78. 「今日、常に規律的な解決策を求め、過度な教義上の『安心』を欲し、もはや存在しない過去を頑なに取り戻そうとする者は、物事を静的かつ内向きに捉えている。このようにして、信仰は他のイデオロギーの一つに成り下がってしまう」
  79. 「私は、母であり牧者である教会を夢見る」
  80. 「私は少し抜け目がなく、状況に適応できると言えるかもしれないが、同時に少し単純でもある。そうだ、しかし最も内面から出てきて、最も真実だと感じる要約はこれである。私は主に目を留められた罪人である」
  81. 「教会においても、信仰の歩みにおいても、女性は主への扉を開く特別な役割を果たしてきたし、今も果たしている」
  82. 「私は教会を戦いの後の野戦病院のように見ている。重傷を負った人に高コレステロールかどうかや血糖値のことを尋ねても無意味である。まずはその傷を癒さなければならない。その後で他のことを語ることができる」
  83. 「神は人が受け取ることのできない賜物を与えることは決してない。もし神が私たちにクリスマスという賜物を与えるのなら、それは私たち皆がそれを理解し、受け取る能力を持っているからである」
  84. 「キリスト教信仰によれば、真理とはイエス・キリストにおける神の私たちへの愛である。ゆえに、真理とは関係である」
  85. 「神の救いの愛の告知は、道徳的または宗教的な義務に先立つものである。今日ではしばしば、その逆の順序が支配しているように見える」
  86. 「神の民が求めているのは牧者であり、官僚や役人のように振る舞う聖職者ではない」
  87. 「イエズス会士は教皇に従う誓願を立てる。しかし教皇がイエズス会士であるなら、もしかすると教皇は総長に従う誓願を立てるべきかもしれない…私は自分の霊性において、心の中において、今もイエズス会士であると感じている」
  88. 「政治は高貴な営みである。私たちはそれを再評価し、召命をもって実践し、証しと殉教、すなわち公共善のために命を捧げるほどの献身をもって行わなければならない」
  89. 「これが私である。主が目を留められた罪人である。そしてこれが、教皇に選出されたときに受諾するかと問われて私が答えた言葉である。私は罪人である。しかし、主イエス・キリストの無限の憐れみと忍耐を信頼し、償いの精神をもって受け入れる」
  90. 「皆の中にはカトリック教会に属していない人も、無神論者も多くいるので、心から一人ひとりにこの沈黙の祝福を送る。各人の良心を尊重しつつも、あなた方一人ひとりが神の子であることを知っている」
  91. 「ある人が挑発的に、同性愛を認めるのかと私に尋ねた。私は別の問いで答えた。『教えてほしい。神が同性愛者を見るとき、その存在を愛をもって認めるのか、それとも拒絶し、断罪するのか』。私たちは常にその人自身を考慮しなければならない」
  92. 「私たちの間で上に立つ者は、他者に仕える者でなければならない。だからといって毎日互いの足を洗う必要があるわけではないが、互いに助け合わなければならない」
  93. 「重要なのは、人々を知り、耳を傾け、思考の輪を広げることである。世界は交わり、また離れていく道で縦横に走っているが、大切なのはそれらが善へと導くことである」
  94. 「私は教義的確信を持っている。神はすべての人の人生の中におられる。神は誰の人生にもおられる。たとえその人の人生が惨憺たるものであっても、悪徳や薬物やその他のもので破壊されていたとしても、神はその人の人生の中におられる。あなたは―いや、あなたは必ず―すべての人間の人生の中に神を探さなければならない」
  95. 「政治に関わるカトリック信者は、自らの宗教の価値を内に抱きつつ、それを実現するための成熟した自覚と専門性を備えていると私は信じている。教会は自らの価値を表明し広めるという任務を超えることは決してない。少なくとも私がいる限りは」
  96. 「私たちは皆、善を行う義務を負っている」
  97. 「私は神を信じている――カトリックの神をではない。カトリックの神など存在しない。神がおられるのだ。そして私はイエス・キリスト、すなわちその受肉を信じる。イエスは私の師であり、牧者である。しかし神、御父であるアッバは光であり、創造主である。これが私の存在そのものである。」
  98. 「私たちは、自分たちが生きている社会と世界において、他者への愛よりも利己心が増大していることを見てきた。そして善意の人々は、それぞれ自らの力と専門性をもって、他者への愛が自己愛と同等になり、可能であればそれを超えるまで高めるよう努めなければならない。」
  99. 「ひとたび選ばれたなら、教皇はイエスがペトロに与えた約束によって、誤りの可能性から守られる。神は、浪費家の政治家であっても、責任ある教皇へと変えるだろう。」
  100. 「中絶は小さな悪ではなく、犯罪である。一つの命を救うために別の命を奪う、それはマフィアがすることだ。それは犯罪であり、絶対的な悪である。」
  101. 「お金は仕えるものであり、支配するものではない。」
  102. 「意識的なキリスト者であるためには、パウロ抜きではありえない。彼はキリストの教えを教義的な枠組みに翻訳し、多くの思想家や神学者、司牧者による膨大な付加を経ても、二千年経った今なお残り続けている。」
  103. 「クリスマスは喜びであり、宗教的な喜びであり、光と平和の内面的な喜びである。」
  104. 「主を礼拝するとは、主にふさわしい場所を与えることであり、主を礼拝するとは、言葉だけでなく、主こそが本当に私たちの人生を導く方であると宣言し、信じることであり、主を礼拝するとは、主こそ唯一の神、私たちの人生の神、歴史の神であると、主の前で確信することである。」
  105. 「銀行への投資が下がると、それは悲劇だと言われ、『どうしようか』と人々は騒ぐが、人が飢えに苦しみ、食べ物がなく、健康を害していても、それは何でもないことのように扱われる。」
  106. 「『同意しない』と言ってくれる人が好きだ。それが本当の協力者である。『素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい』と言うだけでは役に立たない。」
  107. 「喜びに満ちていない修道女に出会うと悲しくなる。彼女たちは微笑んでいるかもしれないが、ただの微笑みだけなら客室乗務員と変わらない。」
  108. 「ローマ教皇庁には欠点があるが、人々はその欠点を強調しすぎて、そこで働く多くの修道者や信徒の健全さについてはあまり語らないように思う。」
  109. 「若者は利便性や手軽さに惹かれるのと同じように、真理にも惹かれる。」
  110. 「仮に西方カトリシズムが独身制の問題を見直すとしたら、それは普遍的な選択というよりも、文化的な理由によるものだと思う。」
  111. 「すべてのものの中に神を探し求め、見出そうとするこの探求には、なお不確かさの領域が残る。それは必要なことである。もし誰かが神に完全な確実性をもって出会ったと言い、不確かさの余地に触れないのであれば、それは良いことではない。」
  112. 「人権はテロや抑圧、暗殺によってのみ侵害されるのではなく、巨大な不平等を生み出す不公正な経済構造によっても侵害される。」
  113. 「権力の地位にありながら、他者の人生を破壊することは許されない。」
  114. 「すべての問いに答えを持っているなら、それは神がその人と共にいない証拠である。それは宗教を自分のために利用する偽預言者であることを意味する。モーセのような神の民の偉大な指導者たちは、常に疑いの余地を残してきた。私たちは自分の確実さのためではなく、主のために余地を残さねばならない。私たちは謙虚であるべきである。」
  115. 「消費社会が強いる競争の結果、ますます多くの人々が日曜日に働いている。」
  116. 「普遍教会の懐を、私たちの凡庸さを守る巣にしてはならない。」
  117. 「労働の文化とともに、充足としての余暇の文化もなければならない。言い換えれば、働く人々は休む時間を取り、家族と過ごし、楽しみ、読書をし、音楽を聴き、スポーツをする必要がある。」
  118. 「私たちの教会管区には、子どもが結婚の神聖さの中で生まれなかったという理由で、未婚の母の子どもを洗礼しない司祭がいる。これこそ今日の偽善者である。教会を聖職者中心のものにし、神の民を救いから引き離す者たちである。」
  119. 「私たちは教会において、女性に関する深い神学を発展させるために、さらに努力しなければならない。重要な決定を下す場には、女性の持つ天賦の才が必要である。」
  120. 「労働は結局、人間を非人間化してしまう。」
  121. 「虚栄の現実を説明するためによく用いる例はこれである。クジャクを見てみなさい。正面から見ると美しい。しかし背後から見ると真実が見えてくる……そのような自己陶酔的な虚栄に屈する者の内側には、大きな惨めさが隠れている。」