ロバート・オッペンハイマーの名言・格言・警句25+選

ロバート・オッペンハイマーの名言
ロバート・オッペンハイマーの名言
  • 1904年4月22日~1967年2月18日
  • アメリカ合衆国出身
  • 理論物理学者、科学行政官、教育者
  • マンハッタン計画において原子爆弾の開発を主導し、「原爆の父」と呼ばれる。戦後は核兵器の規制と倫理的責任を訴え、冷戦下の科学と政治の関係に深い影響を与えた。
  1. 「ある種の粗雑な意味においてではあるが、どんな下品さでも、ユーモアでも、誇張でも完全には消し去ることのできない意味で、物理学者たちは罪を知ってしまった。そしてそれは、決して失われることのない知識である」
  2. 「科学者も行動する人間も常に神秘の縁に生きており、その神秘に囲まれている」
  3. 「科学者は非行者ではない。我々の仕事は人間の生活条件を変えてきたが、それらの変化をどう利用するかは政府の問題であり、科学者の問題ではない」
  4. 「楽観主義者は、これが可能な限り最良の世界だと考える。悲観主義者は、それが真実であることを恐れる」
  5. 「いかに自分が無知であるかを知らずして大学を出る者があってはならない」
  6. 「探究の自由にはいかなる障壁もあってはならない。科学に教条の居場所はない。科学者は自由であり、あらゆる問いを発し、あらゆる主張を疑い、あらゆる証拠を求め、いかなる誤りも訂正する自由を持たねばならない」
  7. 「我は死となりて、世界の破壊者となれり」
  8. 「子ども時代の私の人生は、世界が残酷で苦いもので満ちているという現実に備えさせてはくれなかった」
  9. 「私の子ども時代は、世界が残酷で苦いもので満ちているという現実に備えさせてはくれなかった」
  10. 「1936年の春、私は友人たちの紹介でジーン・タトロックと出会った。秋には彼女に求愛を始めた。私たちは少なくとも二度、結婚を意識し、婚約していると自分たちで思うほど親密になった」
  11. 「幸福になろうとすることは、ただ静かに作動することだけを条件に機械を作ろうとするようなものだ」
  12. 「科学における深遠な事柄は、有用だから発見されるのではない。発見することが可能だったからこそ発見されたのだ、というのは深く、そして不可欠な真理である」
  13. 「私は、大恐慌が生徒たちに何をもたらしているかを目の当たりにした。彼らはしばしば職を得ることができず、得られたとしても全く不十分なものだった。そして彼らを通して、政治的・経済的出来事が人間の人生にいかに深く影響を及ぼすかを理解し始めた。私は、社会の生活にもっと積極的に関わる必要を感じ始めた」
  14. 「私は、ドイツにおけるユダヤ人の扱いに対して、ずっと燻るような怒りを抱き続けていた」
  15. 「この世界の人々は団結しなければならない。さもなければ滅びるだろう」
  16. 「自らの誤りを正すのに十年かかるような男は、たいした人物である」
  17. 「もし原子爆弾が、戦争を行う世界の兵器庫や戦争に備える国々の兵器庫に新たに加えられるのだとすれば、やがて人類はロスアラモスと広島の名を呪う時を迎えるだろう」
  18. 「技術的に魅力的なものを目にしたとき、人はまずそれを実現してしまい、どう扱うかについての議論は技術的成功を収めた後にようやく始まる。それが原子爆弾のときに起きたことだった」
  19. 「科学がすべてではない。しかし科学は非常に美しい」
  20. 「私は友人よりも物理を必要としている」
  21. 「原子爆弾は、将来の戦争という見通しを耐えがたいものにした。我々を最後の数段の坂を登らせ、峠の向こうには、異なる国が広がっている」
  22. 「科学の歴史は、異なる文脈で発展した二つの技術や二つの思想を結びつけ、新たな真理を追求することで実りある成果が生まれた例に満ちている」
  23. 「人員を集めるために、私は全米を回って、原子力事業のさまざまな分野や、たとえばレーダーや水中音響の分野で働いていた人々と話をし、仕事の内容やこれから赴く場所について説明し、彼らの熱意を引き出した」
  24. 「物質科学において、今という時代はこれまでもそうであったし、これからも間違いなく英雄的な日々であり続けるだろう」
  25. 「私は共産主義の教義や理論を決して受け入れたことはなかった」
  26. 「ヴェーダに触れることができるということは、この世紀がこれまでのあらゆる世紀に対して誇りうる最大の特権である」
  27. 「通りで遊んでいる子どもたちの中には、私の物理学上の難問のいくつかを解ける者がいるかもしれない。なぜなら、彼らは私がとうの昔に失った感覚のモードを持っているからだ」
  28. 「1929年の春、私はアメリカへ戻った。この国が恋しかった。学生時代に私は新しい物理学について多くを学び、それを自ら追究し、説明し、その発展を促したいと願っていた」