教皇フランシスコ 「政府の務めを担うすべての男女は、自らに二つの問いをしなければならない。『人々をよりよく仕えるために、私は彼らを愛しているか』『私は謙虚であり、最良の道を選ぶために多様な意見に耳を傾けているか』。この問いを自らに課さないなら、その統治は良いものとはならない...
教皇フランシスコ 「私たち一人ひとりは善と悪のビジョンを持っている。人々が自分が善だと考えるものへ進むよう励まさねばならない。…誰もが自分なりの善と悪の考えを持ち、それに従って善を選び、悪と戦わなければならない。それだけで世界はより良い場所になるだろう」
教皇フランシスコ 「キリスト者が復古主義者であり、律法主義者であり、すべてを明確で安全なものにしたいと望むなら、何も見出すことはできない。伝統と過去の記憶は、私たちが神に新たな領域を開く勇気を持つために役立たねばならない」
教皇フランシスコ 「教会の社会教説によれば、政治は最も高貴な愛の形の一つである。なぜならそれは共通善に仕えるからだ。私は手を洗って知らぬ顔をすることはできない。私たちは皆、何かを捧げなければならないのだ」
教皇フランシスコ 「まずヨーロッパで、そして今やアメリカで、選ばれた人々は国民を借金漬けにし、依存の雰囲気を作り出すことを自らに課してきた。なぜか。それは自らの権力を拡大するという利己的な必要のためである」
教皇フランシスコ 「『もっと人間的なキリスト教を持てないだろうか。十字架なしで、イエスなしで、自分を捨てることなしで』と言うかもしれない。そのようにして私たちは菓子店のキリスト者になってしまうだろう。きれいで甘いが、真のキリスト者ではない」
教皇フランシスコ 「私が属する西方教会では、ビザンチン、ウクライナ、ロシア、あるいはギリシャのカトリック教会のように司祭が結婚することはできない。これらの教会では司祭は結婚できるが、司教は独身でなければならない。彼らはとても優れた司祭である」
教皇フランシスコ 「今日、ニュースになるのはスキャンダルであり、それは報道される。しかし食べ物のない子どもたちの多さはニュースにならない。これは重大なことであり、このような状況の中で私たちは安心して休むことはできない」
教皇フランシスコ 「否定的なニュースが出ることはあるが、それはしばしば誇張され、操作されてスキャンダルを広める。ジャーナリストは時に、糞便愛好症にかかり、ひいては糞便摂食症を助長する危険を冒している。これはすべての人を汚す罪であり、つまり積極的な側面よりも否定的な側面に注目...
教皇フランシスコ 「通りに出ることが事故の危険を伴うのは事実であり、それは普通の人々にも起こり得る。しかし教会が自分の中に閉じこもれば、老いていく。通りに出て傷を負う教会と、引きこもって病む教会のどちらかを選ばなければならないなら、私は迷わず前者を選ぶ」