教皇フランシスコ 「イエズス会士は教皇に従う誓願を立てる。しかし教皇がイエズス会士であるなら、もしかすると教皇は総長に従う誓願を立てるべきかもしれない…私は自分の霊性において、心の中において、今もイエズス会士であると感じている」
教皇フランシスコ 「私は教会を戦いの後の野戦病院のように見ている。重傷を負った人に高コレステロールかどうかや血糖値のことを尋ねても無意味である。まずはその傷を癒さなければならない。その後で他のことを語ることができる」
教皇フランシスコ 「私は少し抜け目がなく、状況に適応できると言えるかもしれないが、同時に少し単純でもある。そうだ、しかし最も内面から出てきて、最も真実だと感じる要約はこれである。私は主に目を留められた罪人である」
教皇フランシスコ 「今日、常に規律的な解決策を求め、過度な教義上の『安心』を欲し、もはや存在しない過去を頑なに取り戻そうとする者は、物事を静的かつ内向きに捉えている。このようにして、信仰は他のイデオロギーの一つに成り下がってしまう」
教皇フランシスコ 「私は性急に下される決断を常に警戒している。決断を迫られたときに最初に頭に浮かぶ判断、つまり第一の決断を私は常に警戒する。それはたいてい間違っているからだ。私は待ち、自己の内面を深く見つめ、必要な時間をかけて吟味しなければならない」
教皇フランシスコ 「まず、キリスト者の神が信じず、信仰を求めない者を赦すのかとあなたは問う。前提として、そしてこれは根本的なことだが、神の憐れみは、誠実で悔い改めた心で神に立ち返るならば限りがない。神を信じない者にとっての問題は、自らの良心に従うことにある」
教皇フランシスコ 「まず、キリスト者の神が信じず、信仰を求めない者を赦すのかとあなたは問う。前提として、そしてこれは根本的なことだが、神の憐れみは、誠実で悔い改めた心で神に立ち返るならば限りがない。神を信じない者にとっての問題は、自らの良心に従うことにある」
教皇フランシスコ 「今日、世界には多くの貧困がある。そして私たちがすべての人に分け与えることのできるほど多くの富と資源を持ちながら、それが存在するのはスキャンダルである。私たちは皆、どうすれば少し貧しくなれるかを考えなければならない」
教皇フランシスコ 「私は教区神学校に入った。ドミニコ会が好きで、ドミニコ会の友人もいた。しかしその後、神学校がイエズス会に委ねられていたため、よく知っていたイエズス会を選んだ。特に私の心を打ったのは、宣教精神、共同体、そして規律の三つであった」
教皇フランシスコ 「あなたに問いたい。現在の重みに押し潰されて生きることができるだろうか。過去の記憶もなく、未来や家庭といった何かを築こうとする望みもなく、それでも進み続けられるだろうか。私にとって、これは教会が直面している最も切迫した問題である」
教皇フランシスコ 「十字架なしに歩み、十字架なしに築き、十字架なしにキリストを宣べ伝えるとき、私たちは主の弟子ではない。私たちは世俗的である。司教であれ、司祭であれ、枢機卿であれ、教皇であれ、そのすべてであっても、主の弟子ではない」
教皇フランシスコ 「私の選択は、日常生活に関わる質素な車の使用といったことも含めて、物事や人々を見つめ、時代のしるしを読み取ることから生じる必要に応える霊的識別に関連している。主における識別が私の統治の仕方を導いている」