教皇フランシスコ 「虚栄の現実を説明するためによく用いる例はこれである。クジャクを見てみなさい。正面から見ると美しい。しかし背後から見ると真実が見えてくる……そのような自己陶酔的な虚栄に屈する者の内側には、大きな惨めさが隠れている」
教皇フランシスコ 「私たちの教会管区には、子どもが結婚の神聖さの中で生まれなかったという理由で、未婚の母の子どもを洗礼しない司祭がいる。これこそ今日の偽善者である。教会を聖職者中心のものにし、神の民を救いから引き離す者たちである」
教皇フランシスコ 「すべての問いに答えを持っているなら、それは神がその人と共にいない証拠である。それは宗教を自分のために利用する偽預言者であることを意味する。モーセのような神の民の偉大な指導者たちは、常に疑いの余地を残してきた。私たちは自分の確実さのためではなく、主のために...
教皇フランシスコ 「すべてのものの中に神を探し求め、見出そうとするこの探求には、なお不確かさの領域が残る。それは必要なことである。もし誰かが神に完全な確実性をもって出会ったと言い、不確かさの余地に触れないのであれば、それは良いことではない」
教皇フランシスコ 「主を礼拝するとは、主にふさわしい場所を与えることであり、主を礼拝するとは、言葉だけでなく、主こそが本当に私たちの人生を導く方であると宣言し、信じることであり、主を礼拝するとは、主こそ唯一の神、私たちの人生の神、歴史の神であると、主の前で確信することである...
教皇フランシスコ 「意識的なキリスト者であるためには、パウロ抜きではありえない。彼はキリストの教えを教義的な枠組みに翻訳し、多くの思想家や神学者、司牧者による膨大な付加を経ても、二千年経った今なお残り続けている」
教皇フランシスコ 「私たちは、自分たちが生きている社会と世界において、他者への愛よりも利己心が増大していることを見てきた。そして善意の人々は、それぞれ自らの力と専門性をもって、他者への愛が自己愛と同等になり、可能であればそれを超えるまで高めるよう努めなければならない」
教皇フランシスコ 「私は神を信じている――カトリックの神をではない。カトリックの神など存在しない。神がおられるのだ。そして私はイエス・キリスト、すなわちその受肉を信じる。イエスは私の師であり、牧者である。しかし神、御父であるアッバは光であり、創造主である。これが私の存在その...
教皇フランシスコ 「政治に関わるカトリック信者は、自らの宗教の価値を内に抱きつつ、それを実現するための成熟した自覚と専門性を備えていると私は信じている。教会は自らの価値を表明し広めるという任務を超えることは決してない。少なくとも私がいる限りは」
教皇フランシスコ 「私は教義的確信を持っている。神はすべての人の人生の中におられる。神は誰の人生にもおられる。たとえその人の人生が惨憺たるものであっても、悪徳や薬物やその他のもので破壊されていたとしても、神はその人の人生の中におられる。あなたは―いや、あなたは必ず―すべての...
教皇フランシスコ 「ある人が挑発的に、同性愛を認めるのかと私に尋ねた。私は別の問いで答えた。『教えてほしい。神が同性愛者を見るとき、その存在を愛をもって認めるのか、それとも拒絶し、断罪するのか』。私たちは常にその人自身を考慮しなければならない」
教皇フランシスコ 「皆の中にはカトリック教会に属していない人も、無神論者も多くいるので、心から一人ひとりにこの沈黙の祝福を送る。各人の良心を尊重しつつも、あなた方一人ひとりが神の子であることを知っている」
教皇フランシスコ 「これが私である。主が目を留められた罪人である。そしてこれが、教皇に選出されたときに受諾するかと問われて私が答えた言葉である。私は罪人である。しかし、主イエス・キリストの無限の憐れみと忍耐を信頼し、償いの精神をもって受け入れる」