教皇ベネディクト16世 「神はご自身の教会を導き、常に保ち、とりわけ困難な時代においてそうしてくださる。私たちはこの信仰のまなざしを決して失ってはならない。それこそが教会と世界の歩む道についての唯一の真のまなざしである」
教皇ベネディクト16世 「すべての道徳問題が中絶や安楽死と同じ道徳的重みを持つわけではない。戦争の遂行や死刑の適用については、カトリック信徒の間でも正当な意見の相違があり得る。しかし中絶と安楽死についてはそうではない」
教皇ベネディクト16世 「教会は自ら作り出したものではなく、神によって創造され、絶えず形づくられている。そのことは秘跡、特に洗礼において表現されている。私は事務的な行為によってではなく、この秘跡の助けによって教会に入るのである」
教皇ベネディクト16世 「神を単なる不可解で侵しがたい意志主義の中に押しやるとき、神はより神的になるのではない。むしろ真に神的な神とは、自らをロゴスとして啓示し、ロゴスとして私たちのために愛をもって行動し、今もなお行動し続ける神である」
教皇ベネディクト16世 「私は、通常、未来を決定するのは創造的少数者であると言いたい。そしてこの意味において、カトリック教会は自らを創造的少数者と理解しなければならない。なぜならその価値の遺産は過去のものではなく、非常に生きていて現代においても関連性を持つ現実だからである」
教皇ベネディクト16世 「自由の名のもとに、権利と義務の間には相関関係が存在しなければならない。すなわち、すべての人は他者との関係に入ることによって生じる自らの選択に対して責任を負うよう求められている」
教皇ベネディクト16世 「私たちの心に、そしてあなたがた一人ひとりの心に、常に主が近くにおられるという喜びに満ちた確信がありますように。主は私たちを見捨てず、近くにおられ、愛をもって包んでくださるのです」
教皇ベネディクト16世 「典礼とは、実際には私たちが教会の広大な信仰と祈りの中へと導き入れられる出来事である。そしてこれが、初期のキリスト者たちが東、すなわち昇る太陽の方向に向かって祈った理由であり、それは再臨のキリストの象徴であった」
教皇ベネディクト16世 「確かに、ガチョウに可能な限り大きな肝臓を作らせるように強制的に餌を与えたり、ニワトリを詰め込み過ぎて鳥の姿の戯画と化させたりするような、被造物を工業的に利用するやり方は、生き物を商品に貶めるものであり、聖書に見られる相互性の関係に実際には反しているように...
教皇ベネディクト16世 「人間は無限を必要としていることを理解しなければならない。もし神がそこにおらず、無限が手に入らないならば、人間は自らの楽園を作り出し、『無限』の外観を与えるが、それは偽りでしかない」
教皇ベネディクト16世 「もし16世紀の偉大な宣教師たちが、洗礼を受けない者は滅びると確信していたのが事実であるならば――そしてそれが彼らの宣教への情熱を説明するものであるならば――第二バチカン公会議以後のカトリック教会において、その確信は明確に放棄された」
教皇ベネディクト16世 「すべての世代は共通善を進めようとするとき、新たに問わなければならない。『政府が市民に合理的に課すことのできる要件とは何か、それはどこまで及ぶのか。道徳的ジレンマは何の権威に訴えることで解決できるのか』と」
教皇ベネディクト16世 「一方で、信仰とは神との極めて個人的な交わりであり、私の最も内奥に触れ、生ける神の前に絶対的な直接性をもって私を置き、神と語り、神を愛し、神と交わりに入ることを可能にするものである」