「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと、その結果において同じである。道路の中央に、大きな石を置くのは悪であり、後からくる人が迷惑をする。それを承知しながら、「私が置いたのではないから」と取り除かないで通り過ぎれば、「善いことをしない」だけであるが、後の人が迷惑をする結果は同じである

- 1871年7月23日~1944年11月18日(73歳没)
- 日本出身
- 創価学会会長(初代)、教育者、宗教家
原文
「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと、その結果において同じである。道路の中央に、大きな石を置くのは悪であり、後からくる人が迷惑をする。それを承知しながら、「私が置いたのではないから」と取り除かないで通り過ぎれば、「善いことをしない」だけであるが、後の人が迷惑をする結果は同じである
解説
この言葉は、消極的な無作為の罪を鋭く指摘している。悪事を働くことだけでなく、善をなすべき機会に行動しないことも、結果としては同じ害を生むという考えである。たとえ直接的に害を与えていなくても、危険や不便を放置することは、結果的に加担と同じ意味を持つ。
背景として、牧口は戦前・戦中に教育者として、人間の行動と責任について強調していた。当時の日本社会は、権威や組織に従うあまり、不正や不条理を見過ごす風潮が強かった。この言葉は、責任を回避する沈黙や無関心こそが悪を助長するという警鐘であり、時代背景から見ても社会改革の意図が込められている。
現代においても、例えば職場で不正やハラスメントを見過ごす、公共の場で危険物を放置する、環境問題や差別に沈黙するなどが該当する。善を行うための小さな行動が社会全体の安全と倫理を守るという意識は、日常生活から国際的課題まで普遍的に応用できる教えである。
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